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タイトル: | 語りだす絵巻 ─「粉河寺縁起絵巻」「信貴山縁起絵巻」「掃墨物語絵巻」論 |
著者: | 亀井, 若菜 |
発行日: | 2015/06/25 |
出版者: | 株式会社ブリュッケ |
抄録: | 本書では、「粉河寺縁起絵巻」「信貴山縁起絵巻」「掃墨物語絵巻」について考察を行う。 ◆◆【序章】◆◆ その際、まず女性像に注目する。それは女性像が、絵巻を制作した者、享受した者がどのような権力の網の目の中にいたのかをあぶり出すものだからである。女性は、家父長制社会の中において、また家父長制社会を構成する各階層の中で、基本的には劣位に位置づけられている。女性は、劣位に位置しながらも、男性の性的対象物であり、また子を産むという身体的機能を持つが故に、男性社会の維持に必要不可欠なものとされる。そのような女性は、男性に都合のいい形で、美─醜、若─老、健康─病などといった両極の間で価値づけられ、あるときには「価値」が高い姿で、またあるときは「価値」の低い姿で、何かの「比喩」としても、表象されていく。そのため、絵の中の女性像は、その絵の制作者や観者が、何に価値を置き、何を劣位に置きたい状況にあったかを、あぶり出すものとなる。それ故、女性像の表現を起点とすると、絵巻全体の表現の意味や絵巻の制作事情を考察することも可能となる。 ◆◆【第1章】◆◆ 本書の第1章では、「粉河寺縁起絵巻」について考察する。この絵巻の第2話では、ある長者の娘の病が、粉河観音の化身である童の祈祷により治る話が語られる。その病の娘の身体は、露出され赤い斑点が付されて苦しむ負のイメージで描かれている。従来、この絵巻は後白河院が作ったとされてきた。しかし後白河院の視点から見ても、病の娘を始めとするこの絵巻全体の絵の表現の意味はつかめない。そこで、新たな解釈を提示する。すなわち、13世紀の前半、粉河寺領丹生屋村が、領地の堺を接する高野山領名手荘と、境界の水無川およびその上流の椎尾山の領有をめぐって激しい相論をしていた際に、粉河寺が高野山に対抗すべく、この絵巻を作ったことを推論する。その文脈の中に置くと、病の娘は、敵対する高野山を、粉河寺が劣位に位置づけようとする表象であると捉えられるのである。さらにこの文脈の中に置くと、この娘が粉河観音の前で剃髪される場面など、第2話の別の場面や、第1話の様々な表現も、一貫性、整合性をもって意味付けられることを詳述する。 ◆◆【第2章】◆◆ 第2章では、12世紀の作とされる「信貴山縁起絵巻」について考察する。この絵巻の下巻に登場する尼(尼公)は、弟の命蓮に再会すべく、奈良まで旅をし、東大寺大仏殿で夢告を受けた後、ただ1人で信貴山に登り、そこで命蓮とともに暮らす。中世においては女人禁制をとる寺院が多くなっていたにもかかわらず、この絵巻の尼公は、大仏殿内に入り、聖なる山として表される信貴山に到達する。尼公の行動は規範を逸脱するものと言えるのだが、絵巻の表現は巧みであり、その行動の現実性を曖昧にしている。すなわち、絵の表現を分析すると、命蓮と尼公は仙人のごとく表され、尼公が信貴山に到達するまでの行程は「現身往生」であるかのごとく、また命蓮と尼公がともに暮らす信貴山の僧房は極楽浄土であるかのごとく表されていることが浮かび上がってくる。本章では、この絵巻がそのような表現によって、ジェンダー規範や他の現世の規範を逸脱するかのような、ある理想的世界を見せようとするものであることを論じる。 ◆◆【第3章】◆◆ 第3章では、南北朝から室町時代の作とされる「掃墨物語絵巻」について考察する。この絵巻では、間違えて顔中に眉墨を塗ってしまった娘が、男性僧侶と対面し、逃げられた後、出家を遂げ、母尼と隠遁生活を送るという話が展開する。絵でもまず、室内で娘と僧が対面し、僧が黒い顔の娘をじっと見ている様子、そして僧が逃げて転ぶ様子が描かれている。この絵巻は、男女の逢瀬とその頓挫、娘のその後を、見せるだけのものなのだろうか。黒く塗られた娘の顔からは、別の連想がはたらく。中世においては、人の身体を「不浄」として厭い、その不浄が死後の肉体の変化により露わになるという様子を描く「九相図」が多く作られた。「九相図」には、体全体の皮膚が黒くなって腐っていく様子が、女性の体として描かれた。また中世の仏教説話として、男性が目の前の女性の体を不浄であると観想して(不浄観をなして)、出家する話も少なからず残っている。女性の体は不浄であるため、男性出家者は愛欲を持つべきではない、美しい姿の女性にも不浄を観想せよ、とされていたのである。このようなことを踏まえてこの絵巻を見ると、僧が黒い顔の娘をじっと見て、その後逃げて転ぶのは、僧が娘に対し不浄観をなそうとしたものの、それが失敗したことを表しているのではないかと考えられる。一方の娘は、その後墨を洗い流して美しい顔になり、出家して、雪景色の美しい小野の地で、母尼とともに往生を確信しながら穏やかな隠遁生活を送る。この絵巻には、女性を不浄とする見方に抗い、女性主体の生を肯定して見せようとする意図があるのではないだろうか。香時計(時香盤)など、この絵巻にある他の様々な表現も、この推論に一致するものとなっていることを詳述する。 ◆◆【終章】◆◆ そして終章では、3つの絵巻に登場する女性が、俗なる世界から聖なる世界へ移動するという共通点を持ちながら、その表現に違いがあることを指摘し、3つの絵巻の特質をさらに考える。本書では、以上のように、3つの絵巻について、女性像を起点に各絵巻全体の絵の表現の意味を、社会的歴史的文脈および社会のジェンダー観や価値観と絡めて考察することを行った。 ◆◆【追記】◆◆ なお本書は、平成27年度 芸術選奨 文部科学大臣賞(評論等部門)を受賞した。 |
内容記述: | 発行元の許可を得て登録しています.
©KAMEI Wakana 2015 |
NII JaLC DOI: | info:doi/10.24795/nbbo_kamei2023 |
URI: | http://usprepo.office.usp.ac.jp/dspace/handle/11355/830 |
ISBN: | 9784434207518 |
出現コレクション: | 図書
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