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タイトル: 東アジアの青銅鋳造技法の地域的特徴と変遷に関する研究
著者: 三船, 温尚
発行日: 2007/03/23
抄録: 東アジアにおいて人間が青銅を溶かして笵(鋳型)に流し入れて道具を作った文化は、中国が最も古い。二里頭後期に土製笵の分割法による青銅鋳造が行なわれ、すでに鋬や脚を持つ複雑な形状を分割法で鋳造する水準に達していた。商代、周代には更に複雑な分割法が確立し、文様を持つ鋬や脚なども分割法で笵を作り渾鋳法で鋳造した。春秋後期には蝋型法の製品が作られ、分割法と蝋型法は、その後 も並存しながら近世に至る。挽き型ゲージを回転して外笵を作る挽き型法で鋳造したものとして明らかなものは、前漢の平縁の鏡以降の青銅鏡がある。鏡以外での挽き型法は、最も古い中国鐘として知られる陳太建十年(578年)銘を持つ鐘がある。外笵を挽く挽き型法はその後の明代の罐にも用いられる。ゲージ回転 で原型を作り分割笵で鋳造する、挽き型法と分割法を組み合わせる方法も明代、消代の罐や鐘に用いられる。 文様は二里頭の青銅器に施され、鋳型面に直接凹線や凹点を彫り込み反転凸形文様を作る最も原始的な技法である。斉家文化の青銅鏡も、コンパスの圏線や定規の直線を用いて鋳型面に直接彫り込む方法の凸線文様である。商代早期の青銅器には、原始的な凸線文様とは全く異なる凹線・凹形文様が登場し、 技術レベルが格段に向上する。この文様交代期には、凸線文様と凹線文様を併せ持つ平底爵も作られる。 しかし、この2種類の文様が、同一スペース内で組み合わされて構成されることは無い。その後、彝器の文様は凹線、凹形が主流になるが、弦文や円圏文の凸線文だけは続いて用いられる。商代、周代の凹線文様は、溶かした油脂を原型表面に塗りそれが固体になってから工具で削って凹線文を作り、そこに笵土を押し付けて文様を写し取る分割笵で鋳造したものであり、蝋型法と分割法の組み合わせ技法といえる。彝器の金文は同様に油脂に凹線で書いた文字や文様を笵土で写し取り、その写し取ったパーツ型を中子に 埋け込む方法で鋳出した。春秋戦国時代になるとそれまでには無いスタンプ式の文様が彝器や鏡に施され、印を鋳型面に押す方法でなされた。 青銅彝器文様が凹線へと変化するなか、西周代の青銅鏡文様は鋳型面に凹線を彫り込んで鋳出す凸線文様が続く。戦国鏡の主要文は彝器の主要文や凹線文と同様の方法で原型に施し、それから外笵を抜き取り、鋳型面に地文を押印したと考えられる。凸線文様が主流となる漢鏡のなかで、彝器と同じ凹線で文様を作る例外的な鏡として変形四葉文鏡があり、鏡胎原型に油脂を塗って凹線文様を彫り外笵を抜き取った。 隋唐鏡は挽き型ゲージで外笵を挽き、直接鋳型面に文様を彫る方法で鋳出した。その後、明らかに蝋型と断定できる鏡も登場するが、数は少なく、中国鏡は凸線、凸形文を主流として、古代から近世まで続いた。 分鋳法、鋳接法が滴代の青銅彝器に登場し、製品の複雑化、巨大化を助けた。三星堆遺跡出士の銅像や仮面、神樹にも分鋳・鋳接技法が多用された。分鋳法は明代、消代の鐘の鈕の分鋳にまで引き継がれるが、その方法は商代の分鋳・鋳接技法と変わるものではなく、これらは既に古代に完成されたものであった。 中国の鋳造技術は青銅彝器や鏡の登場によって早い時期に技術的なピークに達し、その後近世までほぼ変わらず長期間継続された。そして、明代、清代の巨大な鋳造製品を作る技術のほかは、時代が下がるにつれ、技術的な衰退が見られる。 朝鮮半島の青銅技術は遼寧式青銅器文化を源とし、中原の青銅器文様とは異なる文様に特徴がある。多鈕鏡は挽き型法で笵を作り細文鏡の幾何学文は極めて繊細で砂崩れのない笵材を用いている。古代の半島では複雑な形状の青銅器が求められなかったことから、商代に到達したような高度な分割法で鋳造する技術は発展しなかった。その反面、異形有文青銅器の文様は凹線・凹形と凸線・凸形を組み合わせる精緻な文様構成で、半島青銅器の特徴的な技法でなされている。この文様構成は雲南省の銅鼓の一部に見られるほかは中国の青銅器に見られない。異形有文青銅器の文様も、砂粒を含まない粘土に粉末有機物 などを混入した、現在の真土とは異なる笵材を用いて鋳造したと考えられる。凹線文様鋳造法は独自に凸 線・凸形を組み合わせる技法に発展し、初期の異形有文青銅器には北方文化の要素を含む文様が鋳造された。その後やや遅れて蝋型法の製品が登場する。  日本列島の青銅器技術は半島からもたらされた。銅鐸の文様は鋳型面に線刻し反転凸線を鋳造する方法で、笵が石製であっても土製であっても方法は変わらない。鋳型面に直接彫り込む半島の多鈕鏡文様と同じ方法である。古代の列島に、分割法、凸線文様鋳造法、挽き型法は見られるが、凹線文様鋳造法、分鋳法は存在しなかった。特に、大陸や半島で高度に発展した分割笵の凹線文様鋳造法は列島に伝わらなかった。古墳時代に畿内で盛んに作られた倣製鏡は、ゲージによる正円形に歪みがないことや、凸線文様に砂崩れなどの乱れがないことなどから、すでに中国後漢鏡と同レベルの鋳造技術力に達している。鋳あがりの粗悪な倣製鏡が見つかっていないことから、初歩から徐々に高度な技術へ到達する道筋を通ったとは考えられない。 金銅仏は蝋型法で鋳造され、蝋原型に箆で凹線文を描く凹線文様鋳造が列島内に登場する。分鋳法が明らかな今に残る創建当時の大仏として鎌倉大仏がある。その後、江戸の大仏や地蔵などに分鋳法が多用される。列島の鋳造文化を俯瞰したとき、列島独自の技術を見出すことはできない。
内容記述: 人文論第4号
NII JaLC DOI: info:doi/10.24795/24201o007
URI: http://usprepo.office.usp.ac.jp/dspace/handle/11355/622
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