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タイトル: 上毛野地域における古墳文化の特性
著者: 加部, 二生
発行日: 2008/03/21
抄録: 上毛野(現群馬県)地域は、古墳時代前期から畿内勢力に次ぐ強大な文化圏を形成していた。 日本列島で3番目に巨大な前方後方墳である前橋八幡山古墳を構築して、その後の前橋台地を中心として、中期まで君臨していたと考えられる。首長層の系譜はその後高崎地区へと移り、中期には畿内地域と関連性をもつ埴輪工人によって盟主墳の埴輪が焼成された。 その後、畿内地域の最高首長との関係を想定させる長持形石棺を用いた太田天神山古墳、伊勢崎お富士山古墳が構築されて、上毛野地域の隆盛はピークを迎える。しかし、その後の急速な没落に伴い、一部地域で中小首長が勃興して、地域色豊かな舟形石棺を採用した盟主墳が 一斉に構築される。文献史料に認められる「毛野」の分割については、古墳時代前期から那須地域と共に下毛野地域もすでに上毛野とは独立した文化圏を形成しており、おそらく、その構図をもって律令期まで継続しているのではないかと考えられる。 上毛野の古墳時代後期は、畿内地域とはむしろ乖離した関係を構築しており、九州地域を介して、朝鮮半島の文化を積極的に取り入れていたと考えられる。その渡来系の氏族には、高句麗地域の住民達が比較的多く含まれていて、造墓に携わる工人も相当数、海を渡ってきたものと考えられる。高句麗系の造墓技術によって上毛野の古墳は築造され、その関係で日本列島において最も早く、切石積石室が盛行することになる。こうした横穴式石室の構築技術に伴なって、前庭が、波及する。当初、日本列島へ導入された前庭のモデルは高句麗の王陵と考えられる。 上毛野は東北経営の拠点とされ、文献史料においても代々討伐将軍に任ぜられてきた。 しかし、考古学的資料から読み取れる、東北地方における上毛野の影響力については7世紀後半代に至らないと明確化されない。また、「継体紀」に認められる「近江毛野臣」については従来、信憑性について、疑問視されてきたが、近江地域に多数認められる上毛野氏を祭神とする延喜式内社の存在や、上毛野地域との古墳構造の共通性等、何らかの関連性を看取することができる。一方で、「安閑紀」に認められる「武蔵国造の乱」の評価については、考古学的資料から見て整合性が多い。「緑野屯倉」を割譲したとされる藤岡地域では、七輿山古墳以降に盟主墳が築造されずに、首長墓系譜は、埼玉古墳群から最短地域である太田地域へと移る。以後、南関東地域との交流も活発に行われ、埴輪生産においては、現在の神奈川県域へと多量に供給している。 7世紀前半代に畿内から派遣されたと考えられる、総社愛宕山古墳の被葬者によって、再び、前橋地域へと移り、以後、律令期に至るまで上毛野地域の中心地として栄えていく。
内容記述: 人文論第7号
NII JaLC DOI: info:doi/10.24795/24201o011
URI: http://usprepo.office.usp.ac.jp/dspace/handle/11355/620
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