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タイトル: 生と死の仏教民俗
著者: 井阪, 康二
発行日: 2008/03/21
抄録: お産は棺桶に片足を入れたようなものといわれ、安産は時代を通して女性の願いである。そのため安産であることを神仏に祈る。この願いを取り入れたのが、兵庫県宝塚市の中山寺の安産信仰である。江戸時代、中山寺の信仰圏は大坂、尼崎と都市に広がり、明治時代には京都、大阪、神戸と広がった。安産信仰はこの信仰圏を背景に、鉄道という交通手段によって広がった。これは都市民俗の側面を表している。 かつては子供の死亡率が高いために、丈夫に育つことを願うヒロイオヤの民俗がある。それは子供の育たぬ家の子供、また父母が厄年に生れた子供は捨て子にして他の人に拾い親になってもらうのである。兵庫県佐用郡上月町中山にある福円寺の入り氏子がそれである。これは子供を不動尊の子にすることにより、病気などの悪を断ち丈夫に育つことを願った。この信仰は美作、播磨地方に広まった。こうして子供は人へと成長していく。 誰でも一生を息災で送りたいと願っている。人となり四十代の厄は大厄で、淡路島では多くの人に祝ってもらい、村の神社に厄除け参りや、祭礼の神輿を担ぐことが行なわれたり、厄除けに利益のある寺社に参ったりした。この歳は神仏の信仰が受け入れやすい年齢であるからであろう。そして老年へと向かい後生を願うようになる。 勝尾寺(大阪府箕面市)は、平安時代に播磨国加古の沙弥教信の口称念仏による阿弥陀信仰が入ってきた。これを有名にしたのは同寺の証如上人である。このことにより、勝尾寺と箕面が阿弥陀信仰者の集まる場所となり、配流を許された法然が逗留するところとなる。このように摂津国には早くから阿弥陀信仰が入っていた。平安時代中期には末法思想による阿弥陀信仰が貴族達の間で盛んとなり、四天王寺はその信仰を積極的に取り入れ、聖徳太子信仰や日想観と難波には早くから阿弥陀浄土と密接に関る常世の話があるなどからなる極楽土の東門信仰を主張する。これが平安時代後期には西に向かう阿弥陀信仰者により西門信仰ともなり、彼等の集まる場所として阿弥陀信仰の一つの拠点となっていった。また、貴族達の四天王寺への参詣が多く、沈む夕日を拝んでいる。このことは現在でも、春秋の彼岸に四天王寺へ参り、死者の塔婆供養をして、沈む夕日を拝む信仰へとつながっている。そして平安時代中期以後には貴族達の熊野信仰が盛んとなるにつれ、天台宗山門派と寺門派が四天王寺別当を争うことになる。 源信の『往生要集』以来、極楽と地獄はセットで広まっている。中世には、地獄の閻魔王が極楽往生を助ける仏として積極的に語られるようになる。真言宗に阿弥陀信仰が広がる中で、臨終正念の仏としての不動明王の存在が大きくなる。この不動明王信仰の広が りのもとで、地獄の閻魔王を衆生救済の仏と位置付け、人々に地獄の恐ろしさを知らせ、極楽往生を願わせようとして、長宝寺の慶心にそのことを語らせたのが『よみがえりの草紙』である。この草紙の閻魔王と不動明王には、熊野信仰の影響がみられる。 お盆には先祖が地獄から帰ってくるという伝承がある。この草紙が作られた室町時代は、京都の貴族の間に、お盆に先祖の墓参りをする風習がおこり、六道参りも行なわれる。お盆には餓鬼道の苦しみの救済という意味があるので、ここに地獄の話が加わっても不思議ではない。そしてお盆に閻魔王の救済の話が入ってくる。これが京都六道の珍皇寺や西福寺(これらの寺のあたりは平安時代以来の墓地であった)のオショウライムカエである。オショウライムカエは、珍皇寺に地獄へ通じる井戸があり、この井戸を往来した冥官でもあったと伝説のある小野篁が、閻魔王に教えられて始めたといわれている。この小野篁の信仰が京都に広まっていった。このオショウライムカエを、小野篁と閻魔王信仰にのっかり取り入れたのが、千本閻魔堂と嵯峨野の薬師寺である。このことにより、各地に墓地があの世と通じているという信仰が広まる。そこへ『看聞御記』応永29 年6 月6 日条に前年の大飢饉により多数の死者が出たので追善供養の大施餓鬼が五条の河原で行われた。それは死者の骨をもって地蔵6 体を造り、また石塔を建て供養したとある。このことが死者供養と六地蔵を結びつけ、墓地に六地蔵が立つ理由である。 この地獄信仰の普及が淡路島のダンゴコロガシや六文銭へとつながっていったと思われる。地獄極楽の信仰が語られると、その考え方が人々に浸透し、人々は死者があの世で旅をするという理解になる。そして地獄と関わり深い地蔵信仰が死者は六地蔵によりあの世へ導かれるので、その賽銭が必要と考え六文銭を持たせるようになったのである。六文銭は葬送習俗として定着した。淡路島ではダンゴコロガシといって、三十五日忌に縁者が先山千光寺に参り、持っていたおにぎりを六角堂の崖の下へ、後向きになって放る習俗がある。これは鬼がおにぎりを拾っている間に、死者はあの世へ行く、また、閻魔さんへのオヘッツイ(わいろ)であるともいわれている。この六角堂には閻魔王と六地蔵が祀られている。このダンゴコロガシの風習は淡路島の山の上にある真言宗寺院に分布している。 生への願いと後生への願いに違いがある。生への願いはその結果が割合にはっきりすることが多い。それに比べ後生、死後のことは誰にもわからない。そのために後生のことには大変な不安を感じるのである。そのことが極楽信仰では阿弥陀如来だけでなく、極楽土東門信仰、閻魔王、不動明王、十三仏が後生に関ってくるのはその現れである。それだけ後生への願いは大きいのである。そして亡くなった人への、京都のお盆や四天王寺の春秋彼岸の塔婆供養、年忌供養は極楽に居てほしいことを願ってのことであろう。死者がホトケさんと呼ばれるのは極楽に居てほしい願いがこめられているように考える。 ところで本論で取り上げた勝尾寺・四天王寺・長宝寺のある場所に目を向けてみる。勝尾寺の阿弥陀信仰は聖の集る箕面と修験の霊場である神峰山寺に伝わるなど宗教者に伝わっている。そして清和天皇陵のある山城国水尾へも通じる道がある。また西国三十三所観音巡礼道が通り、峠の道の要衝である。四天王寺のある難波は古代に都がおかれたところであり、外国への港であった。そして紀州・中国・四国・九州方面への交通の要衝である。長宝寺のある平野は中世には商業都市として栄え、高野山や熊野へ行く道にある。そ して融通念仏宗がここに拠点をおいて念仏を広めた。当然に平野には融通念仏信仰は広まっていた。長宝寺は尼寺で方丈不在のとき寺を経営していくために、平野の人たちそして高野山や熊野へ参る人たちにも、不動明王・閻魔王がすすめる十三仏の逆修を広めることを考えていたと思う。人々の後生へのねがいが大きい故にそのねがいに応えるために交通の要衝にその拠点をおいたのである。
内容記述: 人文論第8号
NII JaLC DOI: info:doi/10.24795/24201o012
URI: http://usprepo.office.usp.ac.jp/dspace/handle/11355/619
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