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タイトル: 瀟湘と近江における八景形成の地域文化の比較研究
著者: 冉, 毅
発行日: 2007/03/23
抄録: 始めに 本稿は、瀟湘八景が、いかなる過程・方式をもって日本に受容され、特にその影響を受けて近江八景を選定したかという問題について考えるものである。筆者は、日本国民の文化生活の一部分に定着したといえるほどの八景文化(筆者定義)の現象を研究対象として捉え 瀟湘と近江における八景形成を比較研究し、中日交流史の中で、洞庭湖に由来し、豊かな自然風景の「瀟湘夜雨・平沙落雁・遠浦帰帆・山市晴嵐・江天暮雪・洞庭秋月・煙寺晩鐘・漁村夕照」を主題とした瀟湘八景図が果たした役割を、史的な文化価値の視点より再認識しようとするものである。 1 課題提起 瀟湘に洞庭湖があり、近江には琵琶湖がある。類似している自然環境の中で成長してきた地域文化もよく相似る面が多いものであると感じた。洞庭湖一帯の優れた風光をペースにして瀟湘八景が成立した。これに擬えて近江八景も選定された。瀟湘八景は十一世紀の晩期に起こり、十三世紀の初頭に日本に伝わってきて、広範囲にわたって、多彩多様に展開され、現在では大衆的な八景文化の現象になってきた。元和九年(1623)に後水尾天皇<後陽成とも>の命により部類編纂した『翰林五鳳集』に収録された。『翰林五鳳集』に200首の八景詩が収録されている;『江戸時代書林出版書籍目録集成』1によると、1659から1754にわたって出版した瀟湘八景関係書は、元禄年間頃を頂点としていて、一覧表2にすると、16種類ある;近代となった昭和2年4月9日に大阪毎日新聞、東京日日新聞両新聞社が主催し鉄道省が後援して、「日本新八景」を選定するイベントが行われた。昭和2年には、日本の総人口は、約6000万人であったが、「日本新八景選定」の投票数は、9300万票もあった。鎌倉時代の八景から室町の八景、江戸の八景、明治の八景、大正の八景、昭和の八景、平成の八景にまで、その展開は、続いている。内容も絵画、賛詩、詩吟などの文化作品から実際の土地にある景色を選定することになってきた。どうして日本において、八景文化は、瀟湘八景を生み出した中国よりも、八世紀以上もの長い年月にわたっても延々と続いて現在にも至っている。琵琶湖は近江八景が日本の「八景文化」の「総本山」とされている。「瀟湘八景図」は、日本では絵画の鑑賞から始まり、後に絵を模写し、詩を賛することは、足利将軍家をはじめとする京都の公家・武家の世界に広がり、和歌にも詠まれ、実景へも投影された。こうして近江八景、金沢八景、江戸八景など、日本全国にわたる数多くの八景が異なった時代に選定された。日本の 1 慶応義塾大学付属研究所道文庫編、井上書店、1962-64年 2 堀川貴司『瀟湘八景――詩歌と絵画に見る日本化の様相』臨川書店 2002年p163 工芸師たちは、元祖の八景図から幽玄の美を掘り出し、八景図の奥ゆかしさを工芸意匠にも取り入れた、例えば、鉄瓶の彫刻八景図、江戸時代の絵馬・友禅染め小袖・蒔絵箱・蒔絵硯・蒔絵文台・染付け大皿・印籠・大津祭曳山の欄間、袱紗の刺繍八景図など広く美術工芸品の題材として用いられ、日本的な八景文化を作り出した。「瀟湘八景」は、中日両国間の文化交流の中で、多大な働きを果たした価値を再認識して、前人の智恵を借りてこの原点から、再出発しようと考える。この意味からいえば、本研究は、未来性と現実性ともに深い意義があると判断して、研究課題としてとりあげたのである。 2 研究方法 日本の八景関連の史料と中日両国のこれについての研究史と研究現状を調査することにより、現代日本社会に生きている多種多様な八景文化の展開の実例、特に滋賀県の八景文化の実相を明らかにする、 3 本研究の成果 本研究では、西洋学者の瀟湘八景の研究現状をまとめた。結論を先にいわせていただければ、瀟湘八景は日本を通して、西洋に伝えられたと思う。このことは次の事例から証明できた。 1)アメリカの詩人で二十世紀初頭のモダニズムの中心人物であったパウンドは、その長編詩章の「七湖詩」を発表している。この詩の成立には、瀟湘八景が深くかかわっている。「七湖詩」の元は、フェノロサの未亡人が原稿を整理して出版してほしいとパウンドは1913年にそのノート原稿を受けた。1914年4月からパウンド(1885―1972)が書き始めた『詩章』にある「詩章第四十九」即ち「七湖詩章」は、「自らの珍蔵品――日本の折畳の画作「瀟湘八景」に賛した漢詩文の英訳によって書き直したのである。」とパウンドは友人に強調している。この「七湖詩」は、曽国藩のひい孫である曽葆蓀女史3が英訳した八景詩を書き直した再創作であった。 2)初めて「平沙落雁」の古琴曲に対する説明 瀟湘八景は、画題から詩題になり、また、楽譜をも派生した。その代表的な作品は、『梅庵楽譜』「釈談章」四に所収された「平沙落雁」(F調)という曲である。瀟湘の衡陽の地は、また、雁の飛来地の南限として、早くから詩歌に詠まれている。その哀切な情緒を表現するのには、八景の平沙落雁は、寧ろ最適な主題であった。画題としての瀟湘八景の主題を豊かに膨らませただけではなく、瀟湘八景を詠まれた詩作、その奥ゆかしい詩韻、詩情は、悠々と続いているのであった。そうして八景の主題詩は古琴曲にも取り入れられた。『平沙落雁』という楽譜は、正式に琴の曲として、明時代の『古音正宗』という琴譜集(1634年)に収録されている。『平沙落雁』の基調は、一種の静まり返った美しさを表出している。 3)瀟湘八景の日本伝来の時期についての論考 圓爾弁圓(聖一国師)(1202-1280)は、栄西の法孫であり、南宋の端平二年に(1235、日本嘉貞1年、今より769年)入宋し、杭州に至って天竹寺に上がり柏庭善月(1149-1241)に従って天台教理を受け、併せて天台宗の相承図を受領した。また、余杭の徑山に至って、 3 蒋洪新博士「パウンド研究」『外国文学評論』2006,4 無準師範(1178-1249)に禅を学んだ、六年間も宋に滞在し、淳祐元年に(1241、日本仁治2年、今より763年)帰国した。 聖一国師は1235年に入宋し、後に無準師範の弟子になった。一方、牧渓は「紹定辛卯(四年<1231年>)に蒙古軍が陝西から蜀国の諸郡を破り、四川一帯が物情騒然とした時に、難を避ける意味もあって、流浪南下して後無準師範の弟子となった、また、法嗣にもなった」4。聖一国師と牧渓の二人の接触の時間は、1235年から1241年の間であったかと推測する。この史実によって牧渓の「瀟湘八景図」は、聖一国師が、持ち帰ってきたと考えられる。私は今回は初めて、両者の接触の時間を絞ることができた。 5)近江八景を詠んだ漢詩文の分析 瀟湘八景と近江八景はともに詩題として、さかんに詠まれていた。近江八景詩は、絵画を鑑賞しながら詩を詠じた瀟湘八景詩とは、違う点が、真景に臨んで詩を詠たんだ。林羅山(1583-1657)の『羅山詩集』に見える近江八景の七絶の漢詩文は最も古いものと見られる。 読解の例一つ「三井晩鐘」をあげるならば ❀三井晩鐘 三井名蹤欲問誰、他人嘗此建仁祠。龍宮城裏華鯨吼、深省人間薄暮時。〈羅山子 林道春〉 何年勝境更営成、楼閣星霜古水城。啼鳥閑雲過夕照、感心喚起梵鐘声。(熊谷立設) 湖面朦朧画不成、昏鯨高響出園城。霞間好是客船月、十倍楓橋半夜声。(相国寺朴長老) 酔生夢死不堪論、鐘動夕陽驚幻身。若識返聞兼返照、大津是処豈迷津。(草山元政) 洗塵三井一心清、流水相隣七里程。雲遮梵宮煙雨暗、江村近報晩鐘声。(得庵菅玄同) 近江八景詩は、瀟湘八景図が日本に伝わってきて、絵画の鑑賞に始まって、詩題に変わって、抽象的なイメージのもとで、詩を詠み、和歌を作るようになった。そこで問題が生じた、絵画のばあいに煙寺の鐘楼を描くことは容易であるが、晩鐘・晩声を描くことはできない。画中に鐘声を聞き表現しなくてはならぬのが煙寺晩鐘詩の特徴であるが、画面に聞こえるような絵を描き出すのが至難な技であり、「有声画」を作り出すのには、もっと難しい。上記した五首の「三井晩鐘」を表す語句は、「華鯨吼、喚起梵鐘声・鐘動夕陽・半夜声・近報晩鐘声」である。だから、詩では絵と違い、その語句によって景色に接するような臨場感が沸いてくる。瀟湘八景の煙寺は、近江八景では三井となり、「梵宮・園城(寺)」などとして、園城寺の寺楼の存在は、時に眼中に入り、時に眼中にすることができない。このため、近江八景詩は煙寺より優先したのは、「龍宮城・勝境・古水城・客船・楓橋・大津・江村」などの語を中心とした、都であった大津に対する古跡を印象深く読み込んでいる。相国寺朴長老の「霞間好是客船月、十倍楓橋半夜声」の出典は、張継の『楓橋夜泊』詩の「夜半鐘声到客船 夜半(やはん)の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到(いた)る」によるものである。 結論: 瀟湘八景図は、絵画の意味から言えば、水墨画の傑作として、重視された。禅学は、総 4 「東巌浄日の塔銘」と「天童日禅師塔銘」による。『清容居士集』より採用した内容。袁桷(咸淳二年<1266>~泰定四年<1327>)は 字伯長、鄞県人、元代著名作家。 ての点において淡白を主とする。余り派手なことは好まなく、質素の信仰理念を発した表現は、この水墨画に含まれているので、禅僧を通して、受け入れられ、それを日本の自然にあわせることによって、思いもかけず絵画が禅そのものであり、人間の内在から生まれた美しさを求める心を打ったのである。本研究を通じて、瀟湘八景の絵画から歴史を読み取りさらに宗教のなかでも、禅と禅宗を知るという作業、つまり歴史的な文脈を読み取ることが可能であることを知った。瀟湘つまり中国の湖南と、近江つまり滋賀県との間では、空間的に離れている存在ではあるが、それを越えて通時性、共時性とも共有していることがわかった。理論的に絞って言えば瀟湘八景の発生、伝播、展開の史実について、この研究を通して、「歴史的文脈(文化史的な意義)を読み取る作業が可能になった。これらの文化現象を現在の空間的文脈の中に時間の通時性と共時性とに分類して見ることが出来た。ある場所の八景選定は、通時性的(歴史的、時間的)文化史的な沿革(文脈)と、共時性的(空間的展開)文脈の両者の上で、もともとの瀟湘八景の創意豊かで、高尚なる文化的な真髄が見えてくる。八景の美しさの理念は、その中で大きく働いていた。
内容記述: 人文課第8号
NII JaLC DOI: info:doi/10.24795/24201k019
URI: http://usprepo.office.usp.ac.jp/dspace/handle/11355/618
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